久しぶりに消費社会論とかぼんやりと眺めててふと思ったこと。
消費社会論とは、ざっくり言うと
消費(=モノを買うこと)自体が、「私はこういう人間である!!」というアピールを
他の人するための行為。って話。
自分が中学生の時に流行った「前略プロフィール」思い出したり、最近のTwitterでやらかしちゃう人を見たりして、自己アピールの方法である「消費」という行為に「ネット上で閲覧できるデータの公開」が加わっているんではなかろうか。
消費社会論では「お買い物」を自己表現の方法として考えていて、
その中では、
買ったものそのものの「使用価値」は結構どうでもよくて、それよりも買ったものが
「どう見えるものなのか」が大事。という話がされている。
例)「走る」という「使用価値」において車にはそれほど違いがない。
でも、都会住まいの人が「アクティブな自分」を表現するためにSUVを、
「リッチな自分」を表現するために高級スポーツカーを買う。
(都会で乗るならSUVもスポーツカーの付加価値もあまり意味をなさない)
一昔前は人からどう見られるか/見られたいかが「お買い物」の結果でアピールできるものだったのだけれど、最近だとネット上でダイレクトに「私はこういう人間です」とデータで表すことができる。
それはプロフィールであれば、「趣味」や「好みのタイプ」とか「座右の銘」だし、SNSであれば投稿の内容になるだろう。
文字情報として簡単に具体的なキャラをアピールできる。
また情報量によって自分のキャラ設定の具体性や程度と強度を自由に変えられる。
最近よく言われる「若者のコミュニケーション能力の低下」って多分ここに起因していると思っている。
現代において自己(=人)って「自分はこういう人間である。」っていうのは自己申告性になっているけれど、上の世代の自己(=人)は「<周りからみて>自分はこういう人間である。」という他者からの審査に依ってる部分がある。
まぁ「上の世代が要請するコミュニケーション手段がとれてないから、若い世代はコミュニケーション能力がない」って言われたらそれまでなんだけど。
<結論>
昔は今と違って「自分アピールの手段」がそんなになかった(大量生産、大量消費の時代は特に)から、アイデンティティの醸造とか、コミュンケーションの方法が根本から違うんだなって思いました。